2018/05/17 01:30


アパレル勤務だった時から、私は自分が素晴らしいと思ったものだけを取り扱う店を持つ事を夢見ていた。仕事は楽しく、同期の人間が時折こぼす低賃金だという嘆きも蝉の泣き声や他人事に聞こえ、物販の楽しさとその職務に従事する事の奥深さに嵌っていた。
これは戦いだと、思い燃え滾る自分をそこに見た。それは私にとっては誇らしい事で、他人様には分かり得ない個人の変態的フェチズムからくる浮遊感だった。煮えるような感覚、勝負、欲、自己愛。
働くことの楽しさだけを覚えたのではない。感覚を覚えた。恍惚とした売るという行為の快楽は、私にとっては煌びやかでエロティックな至福のご褒美であった。使命だと思う職が別にあり、販売職を離れた後もまだ未練の様なものが色濃く残り、友人の働く店でたまに店員ごっこをして遊んでいたりした。

店が、好きなのだ。そこで売買されているのは‟物品”のみには留まらない。「欲」でもあるのだ。そう、人間の生きる為の本能だ。

人間は、お金で時間を買っている。時にそれは、時間を形造る”物品” であり、誰しもが意識することなく良い時間の為の消費に、日々お金を使って生きている。それを、死ぬまで繰り返す。
これを着て、これを持って、何処かに行く。これを誰かにあげる。欲求は、身体・肉体的に体感するそれに限らない。

要らない物はどんなに安かろうが買わない。でも良い時間を買いたい。嗜好に合う物、刺激されるもの、何かに人間の感性が触発されて購買の動機になり、それは果てしない煩悩の一端が垣間見れた瞬間なのだけれど、そこに人間らしさを感じてそそり立つ私の精神は、「販売」という職務を通して得た快楽の虜になっていて、その中毒性の高い快楽への欲求は病もうとも絶えず、自律神経が狂って鬱状態に陥った時には現実逃避の余り、セール初日のVMDを上席と相談しながら尊敬されるという夢を見て失禁した。私は変態だ。

即ち、いかにも売れそうな物品を自分の店に並べるつもりなど、全く無い。自分の欲しいと思った物品、素晴らしいと感じる物のみの店を作る。自慰行為である。
それが購買に繋がるとしたら、またとない悦びである。がしかし、ただ売るだけでも物足りないというこの変態的貪欲さ。

何か、やらかすと思う。何らかの事柄を、してしまうと思う。

それは誰にも咎められないだろう。法に反しないのであれば、それは自分らしさであるが故の個人プレーなのだから。